絵画への想い

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〜絵画への想い〜

作品(絵画)は描いた画家の分身であると日頃から私は思っております。

同じように「描く」という行為は芝居の演出家に近いとも思っております。テーマを決めて主役が登場し、様々な脇役がそれを助け盛りたてる。時には必要な背景と照明・衣装・メイク・監督・演出家等々はドラマ・舞台を進行させていきます。

画家は限られた平面の上に主役の部分を定め、沢山の脇役を描きながらドラマの一場面を絵画として完成していきます。そこに多くの人々が共感できる絵画の大きな魅力があると思っています。

 

〜絵画の原点 壁画家・革命家 ダビッド・アルファロ・シケイロス〜

メキシコシティからバスで約二時間、クエルナバカは静かで樹木豊かで穏やかな所にメキシコを代表する画家・壁画家、革命家ダビッド・アルファロ・シケイロス(以下D・Aシケイロス)の住居と仕事場があった。建物は高さ3メートルくらいの鉄製と見られる壁でぐるりと囲われ、自然豊かな平和に満ちたこの街にはそれは異様に感じられ、私は咄嗟に外部からの狙撃を防ぐ為のものだろうかと思った。インディオ風の男が開けてくれた鉄の扉の向こうは広々としているが建築現場のようにいろいろな道具や物・やぐらがあって、その後に出来かけの巨大な壁画が並んでいた。右手のプールのある芝生の端にテーブルを挟んで4人の男性が座っていた。その内の1人、正に日本の仁王にそっくりな、やや顎の長い鋭い目をした70歳前後と思われる黒シャツの立派な体格をした男性が、学生の時に画集で見て以来、いつかお会いしたいと思い続けたD・Aシケイロス氏であった。

IMG_0862s「テンゴ エル オノール コノセルロ」(貴方にお会いできて、この上なく名誉です)と氏に伝える。心配顔の私を見つめて、ギョロっとした目が優しくなった。同席していたキューバとアメリカの3人もにこやかだった。用意してきた京都の織物布を「グラシアス」と受け取り、私が抱えていた10点の油絵作品を見せて下さいというジェスチャーをされた。1点1点を見ながら、スペイン語と時には英語も混ざった氏の作品評は長く、激しかったが、私には殆ど解らなかった。ただヨーロッパ的という意味だけは理解できた。

10数年、待ちに待った画家・壁画家、そして革命家D・Aシケイロス氏にお会いしたいと想いは高い壁に囲まれ、建築現場のような巨大な壁画と強烈な塗料の匂い、思いもよらない場所で叶えられた。更に遠方で黙々と仕事をする人達を気にする私に「壁画の仕事に参加してみますか?」確かに氏はそういったと理解した時、メキシコで予定していた全てが吹き飛んでしまった。参加させて頂いた壁画は高さ3メートル、面積4,600平方メートル、恐らく世界一大きな壁画だと思いますが、明らかに分かることは、子供を抱くインディオ、立ち上がる労働者、農民。力強い曲線を駆使した形造り、壮大な空間構成、私が学んだタブローの世界とは違う世界が目の前に開けました。仕事は2メートル半くらいの高さの櫓の上50センチと1メートルの板に立って筆で描くのですが、船舶用塗料はどろどろしており、上を向いて筆を使えばポタポタと足元に落ちますから塗料の匂いよりも滑って私が下に落ちないように神経を使う毎日が続きました。エアポンプの音もクレーンの音も気にならなくなってグラグラする足場にも慣れ、スペイン語も解るようになって仲間も出来、壁画の仕事も楽しくなってきました。

IMG_0863s太陽の日差しが日に日に強くなって塗料まみれも当たり前になった頃、岡本太郎氏の作品がメキシコで制作され、D・Aシケイロス氏の作品と並列される事を知りました。私が見ている限り、岡本氏の作品に具象的な人物が加わったなら両者の作品に違和感は無い、共鳴するものが多いと感じました。メキシコ滞在は長くて4年、マヤ文明も知りたくてグアテマラにもそろそろ行かなくては。と考えていまいしたが、壁画の1箇所、もうずっと前から気になって仕方ない場所がありました。壁面から40センチ位飛び出して浮き出ている鉄製の彫刻です。錆色の鉄片を荒々しく溶接した等身大の人間です。やや上を向いた顔に目はつぶっているのか開いているのか、口は開けていますが、うめいているようでもあり、叫んでいるようでもあります。裸身に両手がありません。やっと前へ揃えて出した足には指がありま。前から見れば立っていますが、横からでは後ろに倒れそうです。強烈な壁画から浮き出た錆びた鉄の像からは異様なと思えるオーラが出ているのです。何だろう、これは?と思いながらもD・Aシケイロス氏と仲間達にお別れする時がきました。

昼時、いつものように氏も一緒のトルティーヤを食べ終わって、これ迄のお礼とグアテマラへ行くことを伝えました。少しの沈黙があって「ワキヤの前途を祝って一杯やろう」と自宅の居間へ案内されました。投獄のたびに世界の文化人にその不当性を訴え続けた奥様も一緒でした。スペイン語と英語で、ゆっくりと私の理解を確かめながら、絵のこと、壁画のこと、氏の生き様のことを話してくれました。「先生の壁画を続けてこられた一番の源はなんですか?」私が最もお聞きしたいことでした。鋭い目で私を見、奥様に移りました。早口の会話の後、「失礼」とおっしゃって奥様は2階へ行かれました。暫くして私達も2階へ行きました。「ここへ来るのは君が初めてかもしれない」D・Aシケイロス氏はそうおっしゃって、入った部屋は広くて質素な寝室でした。壁には沢山の写真がありました。大きなもの、小さなもの。氏は黙ってそれ等を指さしました。私の頭と体が凍りつきました。全ては絞首された者、銃殺された者、惨殺された者の写真でした。美術学生であったD・Aシケイロス氏が18歳で革命軍に加わったように多くの美術学生が立ち上がり政府の兵に殺されました。「全部私の仲間です」そうおっしゃいました。仲間とは壁画を描いてきた仲間でもあり、氏の壁画を描き続けた源がここにありました。「ワキヤ、これだけは守って欲しい。富める者の為だけに絵を描くことと、肩書を並べて自慢する画家にはならないで欲しい。」D・Aシケイロス氏のこの言葉とあの寝室の光景は、今でも鮮明に残っています。

 

脇屋主三

 

メキシコ展新聞掲載

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メキシコ展新聞掲載 メキシコ版

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